高野山への道のりは、私のような車に弱い人間にとって、思った以上に大変なものであった。それでも自分1人のためではないと思ったとたん、耐えることができた!これもこころひとつの変化であると気付いた。又ひとつ教えられた。
同行した和泉の長命寺の勝野住職はおっしゃった。「あなたの信念にひかれて、私はここまで来たのですよ」と。
やっと大きなお寺に到着。見るものすべては、素晴らしい荘厳そのものであった。待ち構えておられたお坊さん方と対峙した。
なぜ“さをり”なるかを今こそ見て頂くことになる。送り返してもらった長谷川せつさんの作品を・・・。スゴク感動しながら見て下さった。
「ここに表現されているこの形こそが仏教の心を形に表現されているものである。見えないものを形として表現すればこのようなものだ・・・を具現してくれているではないか・・・」とおっしゃる。
なるほど、なるほど我々には及びもつかぬ深い信仰のお方からの言葉であります。振り返って私は、自分の作品と比べてみた。これはお土産のつもりで織ったもの俗世間の作品である。比較も何もあったものではない・・・仏と人との差であった。ありありとその大きな差に出会った。
見る方の目の違い、それによって決まるのだ。よくぞここまでよくぞたどりついたことか・・・それ即ち、無心で織った人間のもつ無心の表現、即ち天の表現イコール仏の作品であったのだ・・・
見渡してみれば広い美しいお庭!小堀遠州作とか。借景の杉林、空の青、到底人間わざではないものに、その人の業で得られないものと比べて、決してヒケをとらぬものをさをりの中でやっている。
自然体こそは決して自然に負けるものではないものを創り出し得るのだと知った。決してヒケはとらぬものを創り出すことができる“さをり”であったのだ。
私はあの場を皆様にお見せしたかった。見て頂きたかった。人間も自然の一部!その人間のそのままの表現こそは同じく自然なのだ・・・ということを。どうか自分をこそ大切にして下さいよ、くれぐれも・・・。
人はこのように先天的感性を持っている。なのに便宜上とでも言えようか、同じ方向に向くような教え方をされてきた。吾々は自分の好きに好きにやっている、とそこに大きな差ができた。それは良し悪しではなく、みんな平等の価値であった。違っているということを悪いこととはせず、良いことと考えた時、大きな安堵感を覚える。
人はいのちと共に感性は生まれ、いのちと共に消滅するものと聞く。これだけは衰えないとすれば、神はそのためにこそ人を守っていて下さっている。つまり人を人たらしめるために、創り賜うたものと考える。地下水は深く掘れば、そこに至れるその地下水にまで至った時、それはみんな共通の物となる、ひとつのものとなる。
高野山仏教大学の元学長さんは、新しい価値観を発見して、自己のアイデンティティを確立する必要がある、とおっしゃり、また別の教授は、さをりを一口に言えば、悟りだねとおっしゃった。
簡単なようで、深い深いものを持っているさをり。考えれば考えるほどに広くなっていくさをり、それが今の世にとって大変重要なことだと誰もが気付いて下さるだろう。今後はリタイヤされた男性に呼びかけたい。
今度の工場はゴルフ場のとなりである。あちら競う場、こちら競わぬところ。見ていると面白い。かたや焦っている、こちらじっくり掘り出している。となり同士で反対のことをしているから面白いのだ。かなた草木1本もない、こなた雑木林の中。そこで何を見つけようとするか?かたや体力、こちら感力である。そこでお互いに人として何を得ようとするのだろうか?
司馬遼太郎氏はおっしゃった。価値基準なるものがますます希薄になってきた。この調子ならいずれ日本は滅びるだろう。と心配された。あらゆるものが画一化されている。それを止め得るものは人間の感性。それを忘れてはならないと思う。人間の世であることの大切さを忘れてはならない。
(2003年7月・329号)