「杖が要りませんか?」とよくお尋ねくださる。「はい。田舎育ちなせいで必要かおりません」と申してばかりで、どうして杖が必要なのかさえ知らない私。足が達者なおかげでしょうか。誰かが言う、「トイレに行きますが、先生は?」 私は言う「いいえ私少しも必要ないの。“老人らしくない”とよく言われるけれど・・・」と。そうね老人はよくトイレに行くね。そういえば私には一つの習慣かあるのよ。トイレの後、必ずと言っていい程に、「感謝感謝」と衣服の上から「ごくろうさん」とお礼を言っている。
「せんせ、それなのですね。さをりは常に自分の中に生きてるものを抱えこんでいるから、生きたものをつかみ取る能力をもち合わせているのですね」もしかして、その習慣にあるとても言うのでしょうか。いろいろな人々の想い、直観などを背負いながら生きている。自分のものと思って生きている・・・。だからお互いに「ごくろうさん」と言い合えばそれでよい。多少考え方を変えれば、みんなが自由に仲間の中にとけ込んでくる。お互いのものとして。みんなみんなそれを常に考えている。だから気楽に仲間の中へとけ込んでいける。
「杖が要りませんか」と言われるのと同じ。さっきのトイレヘ誘われたのと同じこと。土台としてはみんなもっているもの。それを時と場合によって活用すればよいもの。常に「ごくろうさん」の言葉さえ忘れなければ人々はお互いにお互いの持っているものをうまく流用し合って生きている。その仲間たちなのでありますね。そこで一つの大きなよろこびは同じ人間でありながら、ほんの少しづつみんなそれぞれ異なったものを持ち合わせているから面白い。人の数だけ異なったものがある。それをお互いに流用できるという面白さ。それがまた素晴らしい。
その差をみんなみんな喜んで待ち受けている。そしてお互いが磨かれていくから面白い。
(2007年2月・372号)