司馬遼太郎氏は「価値の多様性にこそ独創性のある思想や社会の活性を生むと思われるのに、逆に均一性への方向にのみ走りつづけているばかばかしさ。これが戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか」と憂いながら世を去られた。実に明確に世を見られたことに平身低頭する。
それについての価値の多様性なるものを思うとき、我々は過去の物尊重から、人間そのものの尊重へと切り替えを行っている。つまり真の価値、善の価値、美の価値という3つが人を対象として行われてきた。知らず知らずのうちに物をはなれて主体を人に変えてきた。その路線の上に方向転換を行ってきた。その結果、見えてきたものは自分の感性であった。その自分の感性こそは先天的であったことを電子顕微鏡の出現によって確かめ得た。このことは誠に大きい!司馬氏の憂えられた価値の多様性をこそが自然体で人をして自信と自立の道を歩めるような道へと導いてくれるようになっていた。
私達は自信をもって自分の感性と向き合う1つの道筋を示してもらったことを自覚した。「則天去私」は漱石の言葉であるが、「則天知私」の時代へと我々を導いてくれたのである。その時、世の中はすでに着るもので人を読みとる時代となっていた。続 いて住む家で人を読み取る時代へと向いてきたことを知りました。着るものの次は住む家で、その家の大小ではなく感性をその中にいかに活かせるかの時代へとの移行のために古い概念を捨て、「住む家で人の生き方を示す時代」へと移ることを感じ、また願っている。その実態は均一均質ではなく我々の先天的感性に出会う1つの手段でもあるわけであります。
そこには「たった一度の人生」の生き方として悔いのないことを伴うことになりましょう。「人生とは自分を見つけにきたところ」であるならば。
価値基準を人に置き換えた時、人の歩みは確固たるものになると思われるのであります。自分の先天的感性を見つけ得てこそ、1つの方向が決まり、その上に悔いのなき自分が立ち現れてくる、そのような人生であることを。
(2003年8月・330号)
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