捉われずに
自由に織ることによって、
自己を装うことができる。
私の生きざまは、
私の服が語っている。
私の顔は、
私の感性で織り上げたものの中で
生きている。
つまり、
織りによって、
ひとつの私となりきることが
できるのである。
このように、
「さをり」は、
自己を全うする
手段のひとつとなり得る
と知った。
織られた作品には、
個性というか、
生きざまというか、
一人ひとりの歴史が、
能力が、
感性が、
渾然となって
現れ出てくるのである。
しかし、
それはあくまでも
一人ひとりを大切にする
過程を通してである。
その過程は
教えることはできない、
引き出すことなのである。
教えれば、
教えたもののカラーに
染まってしまう。
導き出すことを
やらねばならない。
それに尽きると、
私は決心した。
しかし、
それは大変困難なことである。
導き出すには、
一人ひとりを知らねばならない。
こちらにその目を
持たねばならない。
まず、
機の動かし方、
これは当然必要である。
次に、
自由自在に
好き勝手なことをしてもらう。
ここでそろそろ、
性格なりが見えてくる。
アドバイスする言葉は、
そこで変わってくる。
その応答によって、
自在に、
次の言葉は変わるはずである。
たいていの場合、
その問答は、
織りについての
「概念砕き」の話となる。
一通り掴めたところで、
ヒントを出す。
それをどのようにこなすかを、
じっと見ている。
口を挟むことは
よくない。
黙って、
好きに織ってもらうことが
コツである。
そこに
その人のものが
出始めるから楽しい。
本人も楽しいのである。
今の世は、
何もかもが
能率一辺倒故の
均一、画一の中に
住み馴れていて、
本来あるべき姿が
異様に写る時代
となっている。
そのような中で、
既成概念が染み込んだ人々の意識を
変えることの大変さを
日々痛切に体験している。
けれど、
自己を見つけ出す作業の前には、
この「意識革命」は
避けて通れない道だ。
自己を見つけようとする姿勢を
つくることとのたたかいが
すべてであると思いつつ、
頑張ってきた。
今にして思えば、
私に
活け花の苦い想いが
なかったら、
苦しんで、
織りの新しい道を
拓こうとはしなかっただろう。
おそらく、
単なる手織りで
終わっていただろう。
埋み火を抱いて
生きてきたからこそ、
再び燃え上がったものと思う。
また逆に、
織りに手をつけたばっかりに、
埋み火が掘り返され、
燃え上がったともいえる。
コメント