今、時代が要求しているものは知力ではない。内から湧き出ずる力、すなわち感力ではなかろうか。その認識に立つとき、私たちは人の本質に触れたくて縄文の心を胸に秘めながら、今という時代を織っています。着せられていた時代から、選んで着る時代へと移り行く中で、吾々は自分というものの表現に向かって楽しい試みの連続をやって飽きることがないのであります。
振り返って私が若い頃は、「あのような老人になりたい・・・」と憧れる美しい和服姿がありました。今は職業上以外、美しい自然な和服姿を街で見かけることがほとんどなくなってしましました。
海外から取り入れることの好きな日本人は、しかしそのままを取り入れたくないという強い思いから、ひらかなや着物の美学を生み出しました。そしてSAORIの吾々は、その流れを受けて、“ひらかな服”を生み出しました。
吾々の服には流行はありません。すべて自分を表現するものであるが故に十年二十年経ても少しも古くはならない、且つ手放せないものとなります。
最も大切なことは、それぞれの作品は、相対評価ではなく、絶対評価であるということです。ひとりひとりがすべて主役であること。みんなは同じ目的を持っていて、作品はみんな異なる、オンリーワンであること。世界にひとつ、自分でしかないものがそこに現れるのです。師も弟子もない、先輩も後輩もない、みんな平等。それでいてみんな違うという有り難さ。
“生きているか死んでいるか”がその作品の分かれ目です。“切ったら血が出る”ような生きた作品の存在を多くの人に知ってもらいたい。そしてそれを創造することで自分を発見してもらいたいと思います。自己を表現する“ひらかな服”を創る過程において、何が必要で何が不必要かが見えてくるのです。そこには見えなかった自分が明らかに見えてきます。そのとき、どのように進むべきかが見えてくるのです。不思議なことに。自他共に。
(2006年5月・363号)
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