東京の適塾が広く明るくなった。新宿から少し下がった以前の適塾から近いところ。窓の外を電車が走る。教室ならぬ適塾としての風格をもてるようになった。ますます面白い人たちが輩出される期待に胸躍る思いがする。東の拠点になってほしいと思う。
ところが、この大都会はなにやらもの足りぬ。帰りの新幹線の中で考えた。そうだ、子供たちの姿がない。
人間は生まれた時は純真無垢である。何人もみな純真無垢。それなのに、いつの間にか汚されていく。子供はそのまま真理を掴んで生まれてきた。それをいつの間にか失って大人になる。というよりは、大人になるうちに汚れてしまったのだ。それを悟ってその垢を落とし、サビ落しをする努力を積み重ねた人だけが、人生の達人と言える人になるのだ。だから子供のように真理が見えてくるのではないか。
人は円を描くように生まれたところに戻って行くのだろうか。達人たちは子供のような純粋に近づくのだろうか。
今日もSAORIの森に小学生が来ました。糸のもつれで困っている。うっかりしていると、ついつられてこうしたら良いよと注意したくなる。こちらも多少の我慢が必要なのである。口を出さずにじっと見ている。
やがて自分で文字通り糸口をやっと見つけて、ホッとして次々と織り進める。同じ失敗を3回ほど繰り返すうちに、機や織物の構造を理解し始め、予防するようになる。気付く。やっぱり口出しせずに黙っていてよかったと思うのです。
3歩下がってじっと見ていると本人がよく見えてくる。こちらも引き出すことをやる楽しみなるものがある。教えるとそこでストップ。引き出せばいくらでも出てくる。だからこちらも毎日さをりの森へ行きたくなる。子供たちに会いに。
教えられて知ったものは嬉しくない。自ら見つけたものこそ嬉しいのだ。その喜びを知る場は今は少ない。親切すぎるのもよくない。
特に指導者のみなさんに、「芽が出ようとするのを待つ。いじれば壊れてしまうから」を心にしまっておいてほしいと思います。
(2004年10月・344号)
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