先日、法楽寺に奉納された「さをりの幡」が飾られる、お不動さまの春の大祭に行かせていただいた。以前、梅原猛先生がおっしゃっていたことがある。「日本には仏教というものがある。今に続いているものは仏教だけだよ‥・」と。仏教が永い間人々に必要とされているのは、人類にとって何か普遍的なものを説いており、現在もこの先も変わらないということだろうか。「ああそうですか‥・」と納得した私の中に面白いものが見つかり始めました。「一人一人みんな異った感性を持っているのだよ」ということを見つけたのであります。ふんふんこれだこれこそは動かぬものなりと知った。その時見たものは「自由奔放」という言葉であった。一人一人違う自分を中心とした感性をお互いにつかむことである‥・と知った。
法楽寺の御院主からのお電話。「城さん今、どれ位布が織れているの?それを持ってきて下さいな‥・」が出発点。御院主は「自分の好きなことをする、これは良いわなあ。」と納得された。この時、御院主はなにかを感じられたらしい。私の想いと同じことを考えはじめられたらしい。自分をそこのけとして常に感動を重ねている彼ら、たとえ障害があったとしても、すばらしいそれらの作品には心が映っていた・・・。だからこそ、参った参った彼らの感性に参った。私の比ではないぞ。そして人はそれなりに自分のものを持っている。それを大切にすることが重要なのだと直感した。私のその想いは動かなかった。そしてその時、御院主と私は同じ所に目をやっていたとみえる。「思うまま、想いのままの自分をそこに見ること」をひとりでに知ったのであります。
その時、なにを感じたか。理屈など必要ない。大切なのは本物そのもの。さをりを始めて以来、理屈や何やではないことが次々と始まった。感じることの大切さなるものが大きいことを強く思うようになりました。
(2007年6月・376号)
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