人間の存在は表現なり表現なくして存在はないと申します。いつだったかアメリカからお越しになった方とお会いいたしました。吾らの集まりに出席するためにお越しになったものと思われます。はじめてお目にかかった時はアメリカの方だと思っていましたが、よくお尋ねいたしますと、日系の方で、私に日本語で話してくださいました。その方はじっくりじっくりとよく私めの服装を見つめておられました。
その方の問いかけに対し、こちらはすべて日本語でお答えいたしましたが、私の着ているものを見て「これは間違いなく日本人である」というものを感じ取られたのか、すぐお互い理解し合い、お話し合いは確かなものでありました。彼女は私の衣類をご覧になってこの人ならまちがいないと思われたのか、安心した様子で話されておりました。
「あなただから話すのだが」と前置きして、日本人の欠点について話されました。「日本人の弱点は感性を無視して、知性のみを中心として成り立っていることである。大学の高い所の人を中心に行動している。それ故の弱点を抱えている。あなただから言ってるのだよ」と何度も何度も繰り返して・・・。わたしの着ている衣服を見て、日本人が本来持っていて、現在は忘れ去られているものが宿っていると感じ取られたのだろう。
「知力」「体力」は辞書にあっても、「感力」という言葉は辞書にはない。東大へ入る子はみな「知力」が優秀な子ばかりである。養老孟司先生は「すべての人間は生まれたとき、既にDNAに組み込まれて感性を持って生生れている。これは刺激によって増殖する。自発性によってさらに成長する」とおっしやっている。DNAに組み込まれているならば「感力」という言葉があってしかるべきだ。それが辞書にない。それは一体何事か・・・。そのことで失っているものが必ずある。それが日本人の弱点となっているのだ。
(2007年3月・373号)
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