あちらこちらのお国から、さをりを習いたいといってお越しくださいます。先日はエストニアの方が来られました。嬉しい限りであります。お昼ごはんをさをりの森でご一緒に。お箸の使い方が次第にお上手となります。お国柄がみんな違っていて、それをじっと観察するのがまた楽しいものです。
お箸の持ち方はこんなに難しいものなのか?を眺めながら昼食を一緒にしている日々。「やっと少しはうまくなったね」と眺めている。
ところが「さをり」は同じ苦労をしなくていいの。それなりのカタチになればよいではないか。お箸のようなカタチに捉われず、お好きなカタチを見つければよい。みんな異なるお国柄でよいのだがなあ、と私はひとりで思ってしまう。だからただ「機械のマネをしなさんな・・・」と言うだけになる。
吾々は小さいときからああしなさいこうしなさいと教わってばかりいた。自分で考えるということはなかった。やっとその時が。初めて知った自由であった。しかも自分という一人の人間そのもの。
そのとき最もさびしいのは『人に無視されること』だと人々は言う。それならば、誰もができないことをやればよいと言いはじめたのがさをりであった。只、それだけのこと。さをりはそれだけのことを言ったに過ぎない。なのに思わぬ方面にそれは広がって行った。
こうして遠く海外からさをりを習いたいといって来てくださる。私に会いにはるばる来られる。こんな幸せなことはありません。
私は言った。「これからは同じ夕日を眺めましょうね」と。「どちらも世界に一つの夕日なのだから。吾々だって世界に一人の自分なのだから。同じ夕日を同じように眺めましょうね」と。
ヨーロッパから来られたお二人にも私が言いたいことが伝わったように思う。自分を見つけたいという切実な思いは万国共通なのだ。ひとつのヒントが世界中を駆け巡る。
(2006年10月・368号)
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