夫が亡くなって20年が経つ。早く来い、早く来いと呼んでいるのか、ふと思い出すことがある。
四十九日が済むまでは欠かさず仏壇にお線香を絶やさない。洋皿の上に渦巻き線香を立てていた。安心して隣の部屋で織っていた。法事のための準備である。
仏を置き去りにして料亭での法事は余りにも申し訳ない。この洋間を和室に変えればこの家で法事を務めることができる。茣蓙を敷き詰めれば和室に変化する。しかし普通の茣蓙では駄目。私は畳表を買ってきてせっせと縁布を織り始めた。法事の時、一人置いてけぼりにはできないという気持ちがそうさせた。
熱中している私に孫の声。「おばあちゃん、仏間から煙が出てるよ!」 慌てて飛んで行った。洋皿の上で渦巻き線香が折り重なるように両方の端から燃えている! お備えの椿の花の葉をちぎって消し止めた。なぜこんなことが起きたのかわからなかった。長い長い螺旋状の線香が、その両端から同時に燃え出すというのは考えられない。
その時、嫁が言った。「これはおじいちゃんがみさをさんに頑張るな、と言いたい気持ちを線香で示して下さったんですよ、きっと」 私はぐっと胸が詰まった。声が出ないほどに。不思議、不思議、こんな不思議なことがあるだろうかと、泣けて泣けて、涙が止まらなかった。
全く悔いのないほどに力を尽くす、というのは相手に対することであると同時に、実は自分のためであったということをしみじみと感じた。自分の安心のためであった。この安らぎこそは得難いものであると思った。
夫を見送った後の空虚。暫らくは在りし日の思いを繰り返すばかりであった。しかし、ありがたいことに悔いはひとつもなかった。悔いのないということは、全くもって自分のためである。彼のために、と思っていたことが、すべて結果的には自分のためであったことを知った。悔いのないという嬉しさを得た。
(2006年7月・365号)
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