さをりの森は夏休みに入って急に子供達が多くなりました。おばあちゃんに勧められて・・・という。「なんだ簡単じゃないか!」と少しも恐れない。見れば分かる。簡単だ。即、織り始める。こちらはそっと見ているだけで良い。わき目も振らず織り進む。勝手きままな自由というのはこんなに楽しいものか!と言わんばかりに。「あなたの好きに好きにね、どうなってもいいの。失敗はないの。面白いことしてね。」それが嬉しいのだ。
一人の男の子のが、「僕はこうしろと言われるのが好きじゃないんだ。これは楽しいよ!」と、夢中で織っている。やがて時間が来た。織り上がった布を広げてみる。「うわぁ、こんなに織れたの・・・」としみじみ見ている。「これが僕の作品なんだ。自分の力でこれが出来た!」と嬉しい嬉しいと踊るような足取りで、作品を広げて人に見せびらかす。自分にこのようなことができるとは思ってもみなかった。すべて自分の力でやれた。そのことを初めて知った、実感した喜び。これが最も大きかったと思います。大きな自信を掴んだことでしょう。
思えば「あなたの好きに好きにね、どうなってもいいの・・・」などということは、今までなかった事だった。なぜこれしきのことが、今までにできなかったのか?ただこれしきのことなのに・・・。ただこれしきのことだけど、大きな変化を引き起こすことができるのであります。
その一方、大人は指示待ち、じっと固まってしまって、織り進められない。子供達がスイスイのびのび織り上げていく姿が対象的である。これしきのこと“あなたの好きに好きに・・・”、それができないのである。感性は先天的に持っている。それなのに、その自分の感性なるものをうまく表現できないばかりか、ご謙遜からか、ご自分にその素晴らしい感性があることさえ認めようとしない。
教わってきてばかりの人間にとって、“あなたの好きに好きに・・・”と言われることは、自由という無限の荒野に一人放り出されるようなことなのかもしれない。それでは逆に不自由で出来ない人間になってしまうのだ。
何はともあれ、すべて一人一人の自分世界に一人の自分なのだから、他人のまねなどに止まっていては、自分の先天的とは出会えない、ということを理解して欲しいのであります。
あらゆるものが衰えていく老い。たった一つかどうか知らないが、決して衰えないものがある。それは、感性の力、感力であります。私はよく人から年齢を聞かれます。「九十一歳です」と申せば、大抵は「アレッ」と驚かれます。ありがたいことに私がこうして元気なのも、まだまだ多くの方々に声を大にして言いたいという強い気持ちがあることと、もうひとつ、死ぬまで衰えないもの・感性のおかげだと一人合点しております。
天は、せめてもの衰えないものとして、感性を恵んでくださいました。天の恵みを有難くお受けしましょう。そこに気づかないで過ごすなど、あまりにも勿体ないではないですか。よって、たった一度きりの人生なのだから、自分の命を大切に生きようではありませんか、と特に高齢者に申し上げたい。自分の先天的感性に出会わないで終ることのないよう努めて頂きたいのであります。自分史は、文字を使ってはおこがましい。織りを残せばいついつまでも一目で思い出を残せることになります。
天から頂いたそのままを汚されずに保っている人々、つまり天からそのままの先天的感性を失わずに保ち続けている人々・・・、子供たち。そして、大自然の美に則って、その純粋さに導かれて生まれ変わろうとしている大人たち。最近まで教わることを当然と思っていた大人たち。吾々は子供達の純粋さに導かれて自らの先天的感性との出会いを目指していこうではありませんか。進んで、負うた子に教えられて、浅瀬を渡りましょう。
(2004年9月・343号)
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