人様々。大胆な人、繊細な人。伸びやかな人、凝り固まった人。人それぞれの育ちや、先天的に持って生まれたものがある。みんな違う。しかし自分では気付かない。ひとりひとりみんな異なる。それを見抜く目が要る。指摘を受けて初めて自分を知る。こちらはひとりひとりを慎重に視る。適切な判断を下す必要がある。そこを見抜くことこそ大切なのであります。
今までの社会にはそれがなかった。だから人を中心に据えるのではなく、物を中心としてきたのだった。まるで逆である。大切なのは人である。物ではない。私たちはそれを逆転させた!だから見えない心が見えるようになった。物を造るのではなく、自分を創れるようになった。少なくとも我々はそれを目標にしている。「教えないで、引き出す」のである。
何かに関わることによって行動が始まる。それが生きた証になる。すべては自分の責任である。誰にも文句は言えない。自分で自分を創っていくのだ。生きるとは自分の先天的感性と出合う行為であるならば、その先天的感性を通して、自分のことが見えてくる。人の数だけの異なった作品がそこに見えてくる。それだけに止まらず、よりよく人間を生きるためには、このような楽しいこともあるのだということがわかってくる。自分ひとりが悩む必要はないのだという安堵感が湧いてくる。似たような人たちがいっぱいいることもわかってくる。
人に上下はないように、作品にも上下はない。好きに好きに自分の思うように気の向くままに織る。そこに自分が見えてくる。だから私はどうなんだ、と自ら自分のことを知る。温めることになる。安らぎがそこにある。その悦びは尽きることなし。
医学は悪いところを治す。さをりは良いところを見つけて引き出す。「私の差織り」。みんな違って、みんな良い。自分の中を掘り出す。思わぬものが現れる。それとの出会い。それがさをりである。
(2006年4月・362号)
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