『客観的な真理を探してみたところで、それが私にとって何の役に立つというのだ。私に欠けているのは、本当に人間らしく生きることだ。あれこれ考えながら生涯を送ることではない。』と、たしかキェルケゴールが言っていた。
“人間は考える葦である”といわれ、考えること=理性は、人間の素晴らしさの証であるかのように教えられてきた。しかし、考えるだけでは何も解決しない。吾々現代人は考えすぎなのではないか? 考えすぎて、生きる力を無為に消耗させているのではなかろうか? 純粋直観からなる感性を活かさなければならないのではないか? 辞書に載っていない“感力”が必要とされているのではなかろうか?
お釈迦様も仰っている。『過ぎ去れるを追うなかれ。いまだ来たらざるを想うなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。されば、ただ今あるところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし。ただ、今まさになすべきことを熱心になせ。誰が明日死のあらんことを知らんや。まことに、死の大軍と、遇わずと言えるや。よく、かくのごとく見極めたるものは、心を込め、昼夜怠ることなく実践せよ。かくのごとき者を、一夜の賢者といい、また心静まれる者と言えるなり。』
どうも最近、物忘れがひどくなり、ものを考えるとき、ところどころ不自由を感じることもある。日々情けない思いに捉われている。
けれども一方で、忘れることの効用もあるのではないか?と思いたいこの頃ではある。過去のこだわりや引っ掛かりを捨て去り、忘却の彼方へ流し去ること。昨日を忘れ、明日のことを思い煩わない。“今”、“此処”に徹することによって、一瞬一瞬の生を輝かせること。誰もが一人一人持っている感性を引き出す生きかた。それが本当に人間らしく生きることつながるのではないかと思う。
(2006年2月・360号)
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