まもなく1歳のお誕生日を迎える“ひまご”としばらく一緒に暮らしている。今は歩く日のための準備か、しきりに手足を動かす動作をしている。時々頭に手をやり、笑いかける。私は“天のお指図”をみているような気持ちで眺めている。手足をしきりに使っているのは歩く準備だろう。ならばこの次はどうするか?日がな一日眺めている。実に面白く、飽きない。“ひまご”が孫以上に可愛いいのは、一緒に居る時間が残り少ないからだと思える。残りの最も少ない私と、生まれたてで何の穢れもない彼女。自然体そのものであることが二人を近づけているのだろうと思う。大人はそのことを充分に考えて、事をみるべきだと思っている。
ということの関連で、さをりにまつわる子供達をみていると、彼らについて今何が必要かがよく分かる。大人は自分だけのことしか考えていない。もっと育ちゆく子供に注意を向けたい。そのことをお伝えするために毎日「さをりの森」へ行きたくなる。
多くの大人はこうおっしゃる。今までは「ああしなさいこうしなさい、ばかりだった。自分で考えるなんてことは何もなかった。だからここは別世界のようだ」と喜んでくださる。「こんなものがうまい作品なんですか」「へえっ、これで良いのですか」と驚かれる。
私は答える。「それがあなたのものなんですよ。天はなぜ自分のものを良いとは思わせてくれないのでしょうね?」
そして考える。何故自分で自分のものを深めようとしないのか、慢心してしまえば、それ以上進歩しない、それを天は食い止めるためなのかもしれないと。だから正しい他人の目が必要となるのだ。そこに責任のある目が必要となるのだ。責任ある位置なくしてはできません。
さてさて“古い習慣”それを“覆す”ことは容易ではない。けれど大切なことではあります。人々は、すべては、自分の責任に於いてそれは成っている。但しひとつだけ言えるのは、自分の力で行ったものは他の何よりも嬉しいということ。これが“大きく強い力”となって人々を動かしている。それだけはまちがいのないところ。すべて自分そのものなのだから。
(2005年2月・348号)
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