あけましておめでとうございます。92歳ともなりますと、いつ果てるともわかりません。猶予のならない私であります。が、お蔭様でこうして元気に新しい年を迎えることができました。記憶力の低下には吾ながらほとほとあきれております。しかし、感力だけは一向に衰えを感じないし、若いときには見えていなかったことも見えるようになったと思うのであります。
さて、潜在する能力は教え得るものではなく、刺激することによって見出せるものであります。それをこそ求めたいと思うのが私の願いであります。32歳で、感性は先天的と掴んだ私。感性は先天的なりと、電子顕微鏡のお世話にならずして見つけたのでありました。しかし一介の家庭の主婦の言うことを誰も信じてくれなかったのであります。誰一人として信じて貰えなかったその悔しさをそのままあの世に持って行きたくないとの信念から、現役でまだたどたどしく頑張っております。命ある限りそれを唱えてゆきたい。一般の人々から障害を持つ人まで、すべての今を生きる人々に。
SAORIをやる上では、どうなっても間違いというものはありません。間違ったら、それは神の責任だと思えばよいのだから。そこに見え始めるのは自分の先天的感性である。だから好きに好きに織ればよいのです。また、そうしなければ楽しくないばかりか、自分と向き合うこともできません。人生とは、自分を見つけにきたところなのだから。自分を見つけなくてはいけません。自分を見つけて事足りるのです。人間の存在は表現なり。表現なくして存在はないのです。
このような発想のきっかけとなったひとつに、生け花という大自然を相手のものまでをも型に嵌め込んでやらせをやってきたという不条理に反逆したことがあります。大自然の美を目指しての逆発想を。生まれながらにして持っていた自分なりの感性を引き出すことの重要さに気付いたのです。教えることはむしろ罪悪だということを。一人一人みんな異なった人間、その異なった感性を見つけることだということを。
そして、さをり4つの願いを皆で知恵を絞って考えました。これは30年以上たった今でも色あせていません。
この願いを胸に、教えないで引き出す手法で手織適塾を開催してきたのです。新年にあたり、もう一度原点を確認していただきたいと思うのであります。
何をもって素晴らしいとするか。その基準が大きく変わりました。物から人へと移りました。人を大切に、即ち自分を大切に。それは当然、天から授かった感性に拠ることであります。自分の先天的感性なるものとの出会い!そこに基準を置いたとき、自分なりの生き方が見えてくるのです。
はじめから面白いものを織るのは子供たちであります。文句なしのものを織る。例外なく子供たちの方がうまいと思ってほしい。スゴイスゴイと誉めること。これが教育の一環だと思っています。先天的感性を汚染されずに持っている彼たち。つまり天の感性であると思いたい。そこには誤るということはないのですから。
人は成長することを常に欲するものです。その自分を成長させつつ生きることを始めましょう。今まで見ることのできなかった自分との出会い。その自分を育てながらの人生を。そうでなければ、あまりに勿体ない!
親鳥が、そろそろ孵化しそうな卵に対して、まさにこの世に生まれるという絶妙の機会を捉えてツンツンと刺激を与え、雛が内側から自分の力でこの世に誕生するための行動を促す【卒啄同機】(そくたくどうき)という言葉があります。この言葉は禅宗からきています。「卒」は鶏が卵から孵化しようとするとき、雛が発する合図を指し、「啄」は親鳥がこれに呼応して嘴で殻をつつき破り雛の孵化を助ける行為をいいます。師匠(指導者・保護者)と弟子(子供)の呼吸が合うことです。逃したらまたと得難い時機、逃してはならないタイミングです。すなわち、子供たちが何をやりたいかと思う気持ちが、「卒」であり、これを指導者・保護者が「啄」として捉え、適切な時機にかつ適切な方法でサポートしていくことを意味します。SAORIの『教えないで引き出す』に通じるものがあります。
子供たちばかりでなく、吾々すべてが、心身ともに健康に育っていくためには、まさに子供と指導者の「卒啄同機」が必要です。
明治天皇の御製に『すなほなる をさな心を いつとなく 忘れはつるが 惜しくもあるかな』とあるのを思い出します。自分探しに夢中になっている人は、みな子供の目を持っています。幾つになっても、幼な心を忘れてはいけないと思うのです。また、人間的に魅力が在ると思う人は、どこか子供っぽさ、あどけなさを持っていらっしゃる。それはまた、長寿の秘訣ではあるまいか。自分が自分に近づくほど、自分が愛らしく、いとおしくてどうしようもなくなる。子供の世界に帰っていける。進歩するほど、人間はどんどん自然から、ひいては本来の自分からも遠のいていく。自分を見失っている現代こそ、自分に回帰する必要があるのではなかろうか。
子供の頃から教えられてばかりいた私たち。大人になっても自立していない大人もあります。その意味で、せめて自力で自分を育てることくらいやらねば人の価値は疑わしいのです。
数え年で93となる新年を迎えるにあたり今までを振り返ってみると、つくづく幸せな人生だったと思います。いつ死んでも惜しくない。57歳から自分のやりたいことをやってきて、多くの多くの素晴らしい人々を見つけて嬉しくて共に悦んで、そのあと誰からも、「さをりに出会って嬉しかった!。私の人生は本当に楽しかった!」と多くの多くの人々から感謝されています。辛いこと苦しいことは何もなかった。それなのにこの悦びはあまりに勿体ないと思うのです。
みなさんも、自分が自分で生きている人間の立ったところにしか人間の真実はない。まさに『随処に主となれば立処皆真なり』を実践していただきたいと思います。
(2006年1月・359号)
はじめまして。
私が撮った写真にある言葉の意味を探していたら、
こちらでとてもわかりやすく書いてあるのに出会えました。
勝手ながら、こちらのページをご紹介して、一部引用させて頂きました。
時間の都合でここの前後のみ拝見しましたが、
今日帰宅したら是非ゆっくり読ませていただきたいと思うことばかり。
また改めてコメントさせて頂きます。
投稿情報: hatsumimi-kun | 2006年5 月27日 (土曜日) 13時40分