その昔、感性といえば、
人間のはしたないもの、
卑猥なものとして蔑まれていたものだが、
今や感性は、はやり言葉のようになっている。
しかし、言葉になってしまえば、すでにそれは感性ではない。
感性とは言葉で言い表されるものではない。
それでもなお感性とは何かと問われれば、
ひとつは、
「今ここにしかない、紛れもない私から生まれる一瞬のきらめき」
であると答えたい。
理性や知性を磨くのは結構だが、
磨きすぎることは命をすり減らすことと等しい。
「人間の衰退は感性の磨耗から始まる」と先哲が仰っている。
知性が強すぎると自由を止める。
笑いを抑え、自分自身をがんじがらめにしてしまう。
理性は体裁を作り出す。
それでは、窮屈ではないか。
感激なき人生は寂しい。
感動なき社会は貧しい。
感性は嘘いつわりで固めることができない。
ごまかすことができない。
それは掘り起こすものである。
どこから?
ほかでもない自分の中から。
感性の育む文化は、手作りのものである。
自分で耕し、自分で植え、自分で収穫するものである。
手作りゆえに楽しみがあり喜びがある。
そんな文化を守り育ててゆきたい。
次の世代に継承してゆかねばならない。
楽しむことにかけて、幼い子供は天才である。
あるお寺の山門に、
「人間にとって最も大切なもの、それは童心を忘れないこと、
童心とは神に最も近く接する姿である」
という意味のことが書かれてあった。
子供心に近づけば近づくほど、神様と一緒になれるというのである。
なんと素敵なことであるか。
子供のとき、蟻の行列に目を輝かし、花のつぼみに心を躍らせた。
人はみな昔は子供であった。
それが悲しいかな、歳をとるにつれ、目から輝きが消えていく。
目の輝きが失われた分だけ、
感性、ひいては「生きる力」も消えていることを知らなければならない。
ぼんやりと生きていてはいけない。
いつまでも、キラキラと輝く目を持ち続けたい。
(2005年11月・357号)
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