私は次々に3人の男の子を生んだ。
やがて空襲が激しくなり、
5歳を頭に
3人の子どもたちとともに山村に疎開。
この山村の生活は、
“私の生け花”をつくり出してやろうと思っていた私に、
得難い経験を残してくれたのである。
私は子どもたちを連れて、
よく雑木林へ出かけて行った。
一番小さい子が、
危なっかしい足どりで少し後からついて来る。
林に出かけては、
枝をかついで帰ってくる私を、
村人たちは不思議そうな顔で眺めていたものである。
枝をかついで帰ってくるなり、
座敷に家中のありったけの花瓶を並べ、
ひと枝ずつ生けていくのだ。
枝と器を合わせながら
夢中で取り組んでいくうちに、
枝を全く受け付けてくれなかった花瓶が、
次第に気を許してくれるようになり、
私の心中にも何かが育まれているのがわかった。
その時、
基礎になったのは、
枝をどう生かすかということ。
今まで型にはめて形をこしらえることのみ
教えられてきたのだから、
今度はまるで正反対の方向から
やり始めたわけだ。
この枝を、
この線を、
どう生かすかを考え、
そこに3と5と7という
日本古来の比率を溶けこませて、
ひとつの形にしていった。
そのうち、
だんだん面白くなり、
どんな枝でも生けられるようになったのである。
3年の疎開生活の間に、
近隣の娘さんたちにも
生け花を教えるようになっていた。
もちろん、
素材は自分で探してくるという
約束つきで。
『わたし革命 ~感性を織る~』 城みさを著
(神戸新聞出版センター 1982年刊 ※絶版)より
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