荘子は哲学を芸術化する。或は人生を芸術化するといいかえてもよい。彼にとって哲学とは人間の自由の探求であり芸術とは探究された自由の表現であった。だから儒教と老荘と比べた時、老荘思想なんです。儒教はパッと偶数やから割り切れます。老荘思想の方は奇数が好きなんです。だから二で割ったら必ず一残る。その残る一に惑うことが人間にとっての喜びなんです。一に惑う。割り切れんところに惑うんですよ。その惑い方が人によってみな違うから面白い。それが作品にあらわれる。だからパン、パンと割るんじゃないんです。半分白、半分黒じゃないんです。真四角じゃないんです。ちょこっとしたズレ、そのズレの面白さ、その高度な美学d美意識。その高度な美意識が十分受け入れられる今の時代ということを考えてほしい。そうでしょう。高度な美意識が十分受け入れられる時代なんです。それを求めるから惑っているんです。何があるかわからんから何とも落ち着かない。その惑うことの目標ができたらすごく楽しいんです。だから老荘ですわ。行き詰まって新しく何かと変わろうとする時に老荘が出てくるんではなかろうか。そういう時にピタッと合うんですよ。今の「何やらゆかし」のその七文字と同じなんです。「山路」と「すみれ草」はパチンと決まったものです。その中に入る言葉によってまるきり違ってくる。その「何やらゆかし」の「ゆかしさ」というか「微妙さ」というか「割り切れなさ」というか、実に言葉になりにくいような難しいものがありますね。そういうものを求めているのが今の時代だと思うんですよ。それほどに意識が高くなっている。「その高くなっている意識に満足できるものがないから惑っている」と解説者はそう言っております。ニュース解説は終わりましたとか言って・・・(笑)。(拍手)
コメント