先日、孫の結婚式に出席した。幸せそうな新郎新婦の姿を見ていたら、遠い昔の自分の縁談のことを想い出した。
多くの縁談の中にあって、私の場合、一般常識からすると条件の良くない組み合わせであった。家も邸も人手に渡っていたことを知らなかった。異母兄弟四人の結婚の責任を持った状況の中へ入っていくとは知らなかった。なのに私は後悔ひとつしなかった。
六法全書を手離さなかった夫とその正反対の私!長所と短所が正反対であったために、うまくお互いが補い合っていた。二人合わせて一人前という形であったことが良かったのだ。得意と不得意がうまくチグハグになっていた。だからうまくいったのであろう。
何をして幸せと言えるのか?私をしてご大家の奥様然としたところへ嫁がなかったという幸せ。もしも家を守って奥様然としていたなら、今の私はあり得なかった。家・邸が人手に渡っていたのを知らずに嫁いだこと、普通に言ってペテンにかかったからこそ、私は私としてその能力の出し場が得られたのであった。何をして幸せとするか?ここにこそ結論のあるところ…。
これを一般に縁という。不思議だ。不思議だ。逆境であったから私という人間は力を尽くすことができたのかも知れぬ。その覚悟の上に立って「さをり」をやるだけの余裕を持ち得たのかも知れぬ。
結論として、人は決して失望してはならないということだ。とんでもないところへ嫁いだと思って落胆していれば、自分の中から力は出し得なかっただろう。何とも思わぬ、つまり金銭欲のない人間だったからこそ、うまくくぐり抜けることができた。自分の自力を頼りにしていたことによって、自分を見つけることができたのだ。
金銭なんて何のその。心というものの価値、そこに力を費やさねば。つまりは自分の持つ力なるものを鍛え上げること以外にない。落ち込まない勇気をふるうこと。そこに知恵が湧いてくる。
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