「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」と漱石は『草枕』の画家の主人公に言わせた。私も、春の気配が感じられる“さをりの森”の山路を、土の感触を確かめ踏みしめながら考えた。次のようなことが頭に浮かんだ。
「人は自然を美の対象として自ら創った芸術なる世界に引っ越した。確かに住み安かろう。しかし果たしていつまでも主客別々の世界で満足できるものであるか。・・・人は生きもの、木々も生きもの。同じ生きものであるならば、人に似合うさをりが木々に似合ってもおかしくない・・・。」
ふと、森の中の木の枝に、織り上げたばかりの布を掛けてみた。あぁ、似合う似合う。やっぱりよく似合う。我ながら惚れ惚れと眺めた。青がよい。赤もよい。紫もよい。枝に巻きつければ、どれもどれも「待ってました。良くぞお気づきを」と言っているように見える。しかし、他の人はどう思うだろうか。そこへ人が現れた。「きれいなこと!」と言った。ただ単に木に布が干してあると思われるのかもしれないと思っていたのは、私の杞憂だった。
今月から始まった愛・地球博では、開催の意義について高らかに謳っている。『・・・地球上の総ての「いのち」の持続可能な共生を、全地球的視野で追求することが、21世紀における地球社会の構成員総ての課題となった。この課題を解決するために、私たちは愛・地球博のテーマである“自然の叡智”をタテ糸に、“豊かな交流”をヨコ糸にして、地球社会を包む、柔らかく、豊かさと美しさにあふれる織物を織り上げようと思う。それは地球社会の新しく、美しい装いになるだろう。「自然の持つ素晴らしい仕組みといのちの力」に感動し、世界各地での自然とのさまざまなつき合い方、知恵に学びながら、多彩な文化・文明の共存する地球社会を創ろうではないか。国家、地域、企業、自立した市民、NPO、NGO、ボランティアなどの地球社会を支える人々の多様な営みと多彩な参加が、美しい織物を織り上げるだろう。多様な交流が様々な摩擦を生むこともある。だからこそ、私たちは人類の持つ理性と愛と美しいものへの憧憬を、大切に育てたい。・・・』
落陽が差し、朱も紅も輝きを増した。藍が効いている。芽吹きの時を待つ木の幹も喜んでいる。いのちが吹き込まれたようだ。人は生きもの、木々も生きもの。やはりいのちあるものはどこまでも美しいのだ。
(2005年4月・350号)
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