物から心へという今後の生活を考える時、
それは新しいエネルギーを生むものに違いない。
その新しいエネルギーとは、
機械文明の反対の心の部分、
中でもアートの分野を指すのではないか。
私たちは衣類なるものをアートに創り替えてきた。
楽しいな面白いなと夢中になって織っているうちに、
自分の中のアートを育ててきた。
やがて人間の能力は、
どこまでも引き出すことができることを知った。
物質文明に耳や目を奪われているうちに
危うく捨ててしまいそうになった感性を、
生き生きと蘇らせ、
失いかけた人間としての存在を、
再びしっかりと掴むことができた。
それを有効ならしめたものは他でもない、
教えないで引き出したからでる。
教えなかったからこそできたのだ。
私がうまい織り手でなかったことを神に感謝したい。
私のコピーを造るようなへまをしないで済んだからである。
うまい織り手でなかったからこそ、
みんなの作品を見て、
ためらうことなく心から本気で、「スゴイ!」と感心できる。
本気の想いは、即相手に伝わる。
それが相手にとって自信となる。
その自信は自発性を引き出し、
自発性によって更にその人は成長する。
他から教わったものではなく、
自分の中から生まれ出たものは、
より一層の喜びと満足をもたらしてくれる。
このようにして善い循環が始まるのである。
人間というものは、案外自分のことは見えない。
自分の姿形を鏡で確認するごとく、
自分の内なる能力を見定めるのにも、鏡を必要とする。
心を映す鏡である。
私はその鏡の役目をしてきたつもりである。
その鏡は汚れていてはいけない。
曇りなく正しく映ることが条件である。
だから私の影があるといけない。
うまい織り手でない師匠が良い師匠であるという所以である。
ただし美しいものを見分ける厳しい眼は必要である。
その眼力さえあれば、
織りはできなくても差しつかえない
と言っても過言ではないと思うのである。
(2005年5月・351号)
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