九十幾歳かになっていた母は、
「肉眼で見るものはふらついてばかりいる。
心の目でものを見なければ」と私に言った。
よく分からないがそうだろうよ、
と当時の私は聞き流していた。
しかし、当時の母と同じ歳頃になった今、
母の言っていた意味が、実感としてしみじみと心に沁みる。
一般に「高齢者はねぎらってやればよい、楽をさせればよい」
と考えられがちである。
それも悪くはないが、あまりにも短絡にすぎまいか。
高齢者は“可視的衰え”は確かにはげしいが、
その裏に“不可視的財産”が多分に在る。
古代の中国人はそのことを良く知っていた。
だから老人を尊敬し、その良いところを学んだ。
少し前までの日本でもそんな風だった。
この科学万能の時代にあっても、
老人には「今まで見えなかったものが見えてくる」
という特権がある。
真理に近づく道筋が見えてくるという、
やっと得られる成熟の境地。
それをふさいでしまうのはあまりにも勿体ない。
人生にとって実りのときだからこそ、
それを益々充実させる生き方を提案したい。
母がもう一度織ってみたいとしきりに憧れた織り。
私も母にその楽しさを教わった。
21世紀の世の中になっても、大抵の女は、
一度は織ってみたいと思っている。
“さをりの森”に来られるお客様と接していると、
そう察せられる。
織りがこんな簡単にできるものなのかと、みな喜ぶ。
楽しい楽しい!と目をキラキラと輝かせる。
生きている内は、楽しく元気でいる方法を考えてゆきたい。
楽しければ、時間を持て余して
自ら病気を探し出してくよくよすることもない。
つまらぬことを考えない。
ボケない。
病気にならない。
医者のはしごも必要ない。
国を挙げて取り組んでもなお困難なこの高齢者問題を、
私達の力で云々するつもりは毛頭ないが、
ほんの小さなことでも、できることから始めたい。
自分の中に何を取り込もうではなく、
自分の中に何があるかを探し求めたい。
(2005年8月・354号)
コメント