2005年10月24日 福島県にて
最初の夜は、飯坂温泉吉川屋。飯坂は芭蕉の頃は飯塚と呼ばれていた、とにわか勉強。飯塚が飯塚でお出迎えするという面白いことに。しかし待てど暮らせど先生ご一行はご到着にならず。急に宮城県知事浅野史郎氏と面会されたが故に、日没となり、飯坂温泉吉川屋にたどり着くまで迷いに迷い、とうとうホテルの人が迷った場所まで迎えに行って、結局約2時間遅れでご到着。その割にはみさを先生、お元気。芭蕉も飯塚の里では悪天候と体調不良で苦渋したとの記述ありとお伝えし、納得していただく。
4月からボランティアで毎日来てくださっている橘梁盟(本名三郎)さんの尺八。腕前は人間国宝の先生と国立劇場で演奏されたくらいの方。にもかかわらず、やりたがりの飯塚は6月から尺八の手ほどきを受け、アートさをりの若者達も尺八にはまり、「教えないで引き出す尺八」の方法で、実に奇跡的とも言える上達をし、結局10月の芸術祭では尺八のミニコンサートを開いてしまいました。尺八は首振り3年と言われるほどのものでまだまだですが、40年のギター歴の飯塚は尺八の伴奏を付けさせていただく栄誉にあずかり、この夜も歓迎の合奏をしてしまいました。研三さんが「太陽がいっぱいに」にひどく感激してくださり、これからは橘&飯塚組で各地を巡業して歩くかも?
●『道奥紀行 はじめの夜は 飯塚の 里に迷いて のちの尺八』
新潟の佐藤すみ子さん差し入れの美味しい日本酒を楽しまれたみさを先生、口の回りは絶好調! 我々のSAORI服を褒めてくださり、余興を楽しんでくださり、気分よく「椰子の実」の独唱。(残念ながら、そのときの写真がない。)そのあと我々も一緒に「椰子の実」の斉唱と相成りました。みさを先生の独唱を聴けたのは、私たちだけかもしれません。
●『踊るように 椰子の実歌う みさを師は 願いかないて 奥の細道』
2日目。特筆すべき出来事。おそらくみさを先生の印象に一番残ったであろうこと。吉川屋の朝食バイキングのとき、隣のテーブルの一団から、「みなさんの着ておられるものがとてもステキなので、ぜひお話を聞かせてください。」と声をかけられ、朝食途中ながらみさを先生熱く語りたり。我々もSAORIの服をきちんと見ていただくべく、その場でクルリと回ってミニ・ファッションショー。ボランティアの橘さん、もう何年も前からSAORI服を身に付けていた人のようななりきりよう。このままアートさをりの職員になっていただくのが必然かなと飯塚は考えてしまった。一方、みさを先生は、ホテルの支配人に、色紙にしたためたみさを語録を託し、朝食時に出会った一団に必ず渡して欲しいと交渉されるほどの熱の入れよう。おそらくとてもうれしい出来事。ほら、やっぱりSAORIはスゴイでしょ!と言いたかったに違いない。そういう自信に溢れたみさを先生を間近に見て、みさを先生はつくづくスゴイと思ってしまった。
外はあいにくの小雨模様。飯坂から福島中心部へ向かう途中の医王寺を見学。芭蕉の句『笈も太刀も 五月にかざれ 紙のぼり』の場所。弁慶の笈と義経の太刀が飾られていたという。今は笈のみ展示。義経の太刀は戦時の供出で今はないという。義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟の墓所でもある。そこにあった鐘撞き堂。1回撞くと3年寿命が延びるとか。みさを先生もやりたがり、挑戦したものの良い音が出ない。結構難しいもののよう。橘さん、音にはうるさい。余韻が残らないようじゃダメと、駆け登り、熱心すぎる指導の末、みさを先生と及川さんが撞いた鐘の音がゴォ~ォン・・・。境内に美しく響き渡り、私たちも拍手喝采。ご本人もヤッタ!のポーズ。結果的にみさを先生の寿命は9年延びたはずなので、少なくとも101歳までは生きることになりました。
●『鐘撞けば 寿命三年 延びるという 三度鳴らして 百歳を越す』
10時少しすぎ、アートさをり・さをりひろば福島に到着。一日遅れで合流の達也さんを待って集合写真を撮った後、芸術祭でのミニ・コンサートの再現。歌って踊って笑って吹いて、それから織るアートさをりそのままを見ていただきました。尺八3曲、オールウェイズ、カントリーロード、たんぽぽの庭の合唱。若者の一人がどうしても歌いたいというので、「タッチ」のおまけ付き。若者たちは堂々と楽しげに演奏したり、歌ったりしている。その姿を見ている飯塚はとても幸せ。SAORIやっていて良かったな、作業所開いて良かったな、としみじみ思う。私たちのSAORIのスペース、ひと目みさを先生にも見ていただきたいという念願がかなって皆、大満足。みさを先生からひとりひとりSAORIの講評をうかがい、喜んだり、冷や汗をかいたり。ありがたいひとときをすごしました。
昼食はアートさをり御用達の旅館の仕出し弁当。東北の味はたぶんなじめないと思いつつも、この地ではよくあるそれぞれの差し入れ。会津出身の人が持参した「エゴ」という食べ物で一談義。海草寄せなのだけれど、研三さんは昔飲んだ「虫下しの味」と表現、飯塚も海人草という虫下しの味を思い出したが、この記憶のあるものは他にはいない。今年は夏が長かったので、今もまだきゅうりがなっていると福島弁で説明されていた「きゅうりの漬物」、研三さんご一行には通じなかった。昼食後はサイン会。それぞれ好きなみさを語録を色紙に書いていただく。飯塚には、「なんでもない顔をしているけれど、あなた達のやっていることは実は大変なことなのですよ」という言葉。宝物になると思う。野の花山の木をアレンジした花束と会津塗りのこずゆ椀をみさを先生に差し上げて、「みさを先生囲む会」終了。
山形の阿部みつ子さんから、できるだけ早く福島を出よとの指令あり。急いで文知摺観音へ。芭蕉の句は『早苗とる 手もとや昔 しのぶずり』。百人一首は『みちのくの 信夫文知摺 たれゆえに 乱れそめにし われならなくに』の地。この信夫文知摺が飯塚をSAORIに引っ張り込んだきっかけのようなところ。どうしても見ていただきたかったけれど、前の日の暖かさはどこへやら、木枯らしが吹く感じの寒さとなり、みさを先生、寒い寒いと連呼。ウインドブレーカーをお貸ししたり、達也さんのジャケットを重ね着したりするも、東北の寒さは大阪の方々にはさぞこたえるであろうと推察、早めに切り上げて、体調の保持を図った次第であります。別れ際、福島に来て良かったと言っていただき、働き人たち皆喜んで、先生の今後の旅路の無事を祈りつつ、飯塚インターチェンジで「山形へ行ってらっしゃい」をしたのでありました。
●『さをりの種 撒いて育てて みちのくに 遅咲きの花 確かに咲けり』
★「奥の細道紀行」リレー報告1番手:飯塚 啓子
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