そして、そこでこういうことがあったんです。1981年神戸のポートピァ、私たちがなぜこのポートピアに参加したかというと、どこの作業所でもどこの養護学校でも、見本どおりきれいにきれいに織らせることばかりを強いていたんですね。ここ、あんた間違うた。耳出たよ。ほどきなさい。ここ色違うたじゃないの。ほどきなさい。織ったりほどいたり、織ったりほどいたりする、そういうことが仕事というような作業所のそれこそ知恵遅れの人たちの工場の仕事はみなそうだったんです。で、私は最初に言いましたね。これは先天的に感性を持って生まれているということに気がついた。生花を教えた時に。それが頭から離れません。誰だって持ってるんだ。そしたらこの人たちも持ってるんだ。それが途中から知恵遅れとか何かの知的障害の影響で入るものが入らなかっただけのことなんです。持ってるのは最初から持ってるんだ。それを入るものが入らなかったから一般常識という汚れた概念が身につかなかった。逆に幸せなのだ。その逆に幸せで、逆にピュアなもの、天からもろうたそのままを持ってる人たちのことを認めないで 自分の曲がったものに合わせようとする障害者教育、これに何とかメスをと思ったんです。だから生意気にも大金を出してポートピアの国連館に参加して、そういうことをやらないでおきましょうということを訴えたんです。
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