何故さをりが生まれなければならなかったのか?
感性は先天的に持っているならば、
すべて別々の一人一人なのに
どうしてモノマネをするのかが問われます。
教わるものではない、
一人一人自分の感性表現をすべきである根本は
ここにあります。
まず自分の感性と出会うことから始めよう。
それを土台として人はある。
そのためには教わることは良くないという
大きな大きな転換期に立ち戻ったからであります。
尚その上に、教わって知ったものは嬉しくない。
自ら発見したものこそ、次元の違う悦びがある。
その悦びを一度体験した者は、
自発的に大きな成長をみる。
それが今という時代である。
感性は先天的であるということは、
人々の価値観を大きく変えることとなった。
物は価値を失って、人に移った。
『価値の多様性にこそ、
独創性のある思想や
社会の活性を生むと思われるのに、
現代は、逆に均一性への方向にのみ
走り続けている馬鹿馬鹿しさ。
これが戦後社会が到達した光景というならば、
日本はやがて衰弱するのではないか』
との司馬遼太郎の憂いも、
無くなるのではないかと思われるのです。
コメント